卒論 ~自分探しの旅~

「こじらせ神」としての遺書

遺書〜令和元年六月二十六日〜

拝啓

この文章を読んでいるということは、貴方様はきっと私と何らかの形で繋がりがあったのでしょう。家族、友達、同級生、かつての恋人、あるいはTwitterのフォロワー……それがどんな形であれ、何らかの形で貴方様と私にはご縁があったということなのですね。そんな貴方様に向けて、私は最期の言葉を遺させていただきたいと思います。これは私の遺書であり、私と貴方様との繋がりの形によって形を変える、一枚の手紙でもあるのです。

さて、私がこの度死を決意した理由について語らせていただきましょう。とはいえ、私の死に繋がる一番の理由を具体的な言葉にするのは至難の業でしかありません。それでも、あえて言葉に表すのであれば―梶井基次郎作「檸檬」の一節を拝借し、“えたいの知れない不吉な塊”とでも言うのが妥当なのではないでしょうか。その塊は、私がこの世に生を受け、物心がついた頃から私の心の片隅に住み着いていました。そしてそれは、年月を経るに従ってしだいに成長していき、今では始終私の胸を押さえつけるようになりました。時には私の心を蝕む闇となり、私から気力を奪い、起き上がることすらままならない状態にするのです。

今、そんな“えたいの知れない不吉な塊”が、未だかつて無いほどに膨大に膨れ上がり、私の心を殺そうとしているのです。そしてそれには、ひとつの大きな具体的な原因があるのです。

2週間前の月曜日、クラスメイトの■■■■と隣のクラスの■■■■が交際を始めました。二人は私と同じ合同クラスで、他のクラスメイト達は彼らを祝福し、時に彼らをからかったりしました。そしてその状況が、私にとっての地雷だったのです。

ここでの「状況」というのは、主に「大半の授業はおろか、リーディングライブや進級公演などの舞台発表を共に行うクラスメイトの中でカップルが誕生した」ということを指します。

私にとっての理想のクラスの在り方というのは、「それぞれ異なる個性を持つ一人ひとりのクラスメイトが13人集まることによって生み出されるコミュニティ」であって、その「一人ひとり」が誰かと「二人でひとつ」になることは、私にとっての理想のクラス像から大きくかけ離れるものでした。

しかし、私の理想のクラスを実現させることは、クラスメイト2人の不幸を願うことになります。2人が我慢するよりかは私1人だけが我慢する方がよっぽど合理的です。

けれども、そんな私の我慢も限界に達してしまいました。彼ら二人は、二人でひとつであることによって本来必要のなかった自信を身につけ、自らの誤った正義を振りかざして本来の正義を拒むようになりました。

恋人ができたからといって、コミュニティの活動の妨げをするのは正しいことなのでしょうか?それを指摘した人間が、どうして阻害されなくてはならなかったのでしょうか?この世界は理不尽です。正しいことを言っても、「恋人がいる」ということによって強さを身につけた人間には都合のいいことは全て切り捨てられてしまいます。恋人がいる人が正義なのであれば、全ての恋人のいない人間は滅ぶべきなのでしょうか?いっそのこと「恋人」という概念を消してしまえば、個々の発言が尊重されるのではないですか?

少し感情的になってしまいましたが、これが私の死にたい理由の7割です。私の死によって、彼ら二人が自分たちの「恋人」としての在り方をきちんと考えてくれたら幸いです。自分たちがカップルとして、一人の人間を殺め、ひとつのコミュニティの不和を招いてしまったことを、一生その胸に刻んで生きていってほしいものです。それができないのであれば、私は死してもなお、彼ら二人を永遠に呪い続けます。

まぁ、こんなことを書き連ねている私自身が、一番クラスにとっての地雷であり、不和を招く一番の原因であることは重々理解しています。ご迷惑をお掛けしてすみませんでした。こんな私でも、「女王陛下」と呼んでくれたクラスの皆さんが大好きでした。私のいないクラスで、平和で真新しい学校生活を送ってください。

最後になりますが、これまで私と関わってくださった全ての方々に感謝の気持ちを述べさせていただきます。今まで、本当にありがとうございました。

どうか、自分に嘘をつかないでください。

令和元年六月二十六日 こじらせ神